「花丸」第二話 感想
本能寺に織田刀が行きます。長谷部、宗三、薬研が、それぞれの思いをなんとなく語り合います。でもまあ、歴史ってそういうもんだよね、的な、優しい諦観でもって話は終わります。
2回目ですから、特に大げさな表現もなく、また見るほうもキャラへの違和感に少し慣れてますから、素直に楽しめました。
大和守安定の、狂言回しとしての安定感がとても気に入りました。例えるなら、「私、大和守安定子、本丸高校に通う17歳の女子高生」といったかんじの立ち位置で、ピュアな視点から物語を解釈し、それを見るほうに届けてくれます。昔の主が嫌いなの? とか、もし生きていたら嬉しい? とか、こう、視聴者の素朴な疑問を語ってくれる役。そして加州はイケメンの幼馴染のごとく、まったく安定子は仕方が無いな、そんな簡単なものじゃないよ、と、視聴者のツッコミを代弁してくれます。
この二人は花丸キャラとして違和感もなく、安定(ヤスサダではなく、あんてい)しているように思います。今のところお気に入りかな。
たぶん物語が進むにつれ、大和守の葛藤も深まり、最後には沖田くんへの思いをどうにかするんでしょう。それでいいと思うんです。ていうか、そういうのでいい。そういうのこそ、良いんです。素直にストレートに進んでおくれ頼むから。変な工夫はいらんのです。
ファンのための作品ということでは非常に良いと思います。次回も楽しみだなあ。
「花丸」第一話 感想
第一話であると同時に、キャラクターの紹介回ですね。
あの数多いキャラクターを、短いセリフでズバっと紹介していってます。こいつはこういうヤツな! ってかんじで。
極端化されてます。蜂須賀はナルシスト! とか、石切丸はボケてる! とか。そんなかんじで、キャラクターを明るく極端化した結果、若干の違和感もあるんです。
特に長谷部w 長谷部ってこんなんだっけ? 茶坊主を切ってない気がする長谷部です。信長を恨んでない気もします。戦場で斬られても笑わない長谷部じゃないかしら。
コメディリリーフに使うかー、という感想です。この立ち位置に誰を持ってくるかは気になってたんですが、長谷部とは思わなかったなあ。
ただ、もとの長谷部らしい長谷部だと、花丸の雰囲気には合わないですねたしかに。かといって人気キャラだから使わないのも勿体ない。それで、ということかな?
まだストーリーが始まってないですから、感想らしい感想も無いですが。ひとつ言えることは、花丸の男士たちは幸せそうで良いですね。「妙な工夫はせぬ! 楽しめ!」とでもいうような潔さも感じました。素敵です。
次回も楽しみです。
「本日より本丸を独領とする」 三版出しました
10月15日よりCQーWEB様にて販売開始です。
『火花』又吉直樹・感想
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純文学には偏見が有ります。暗くてつまらないもの、という思い込みです。そして芥川賞作品には特に、この、暗くてつまらないものプラス、エロくて汚らしいもの、という、更にひどい偏見がセットになります。べつに思いたくて思っているわけではありませんが、思ってしまうものは仕方が有りません。あと、私はエロくて汚らしい作品が嫌いなわけではありません。むしろ大好きですが、純文学のかたちで突きつけられたいと思うほどの重要性を感じないだけです。
この状態で火花を読みました。
冒頭、主人公は天才的な先輩芸人・神谷に出合い、彼に惚れこんで弟子入りするわけです。この時点でストーリーが予測されました。「ああ、この神谷という男が破滅していき、最後は死ぬか、悲惨な状態で主人公と別れて、中途半端なかんじで終わる話だろうな」と。それならそれで、その残酷な破滅への道筋を、陰々滅滅と楽しませてくれたら満足かなあ、くらいの気持ちで読み進めました。
そして私の、しょーもない予測は裏切られるわけです。
何で得た知識かは忘れましたが、笑いという感情の基本は『あざ笑い』なのだそうです。動物の猿も笑いますが、それはやはり、あざ笑いになるのだそうです。たしかに、ハゲやチビやデブといった、お笑いの基本キャラクターを笑う行為は、あざ笑いですね。ではなぜ人間は、そういった差別的な感覚で快感を得られるのかというと、笑うことによって、自分の立ち位置の確認をおこない、自分を安心させることができるからです。自分はまだハゲてない、チビでもない、太ってもいないぞ、と。
しかしそれはいけないことですから、お笑い芸人というのは、ある意味、観客にとって、みずから生贄になりに来てくれる聖人みたいなものです。つまり、みずから笑われに来てくれる、みずから被差別的な立場に立ってくれる、みずからアホなことをしたり、馬鹿なことを言ってくれる。そして我々の負の感情を反転させ、安心させてくれて、日ごろの黒い怒りや、ひどい悩みや、不条理への苦しみを、気にしなくても良いどうでもいいものとして、無意味化させてくれるわけです。
ですからお笑いによって観客は幸せになれますが、芸人本人はどうなんでしょうね? 火花を読むと、彼らは自分自身の黒い怒りや、ひどい悩みや、不条理への苦しみを、素直に表現する権利を放棄した人々に見えてきます。もう、笑いが呪いです。笑いは観客を救うというのに、彼ら自身は笑うことによって救われません。自分が誰かを笑って救われる事よりも、自分が誰かに笑わされた理由を分析することを選ぶのです。そうして答えを求め、彼らは、人を笑わせること、つまり、自分が笑われること、自分をおかしな存在にすることによってしか、息ができない人々のようです。
そしてその、呪いのようなお笑いの構図の、究極の体現者として神谷があるわけです。小説内の、どんな悲しいシーンでも、どんな酷いシーンでも、神谷と徳永のかけあいを読むと、私はちょっと笑ってしまうのです。こう、「笑うところではないのに笑ってしまう私」を強烈に意識させられて、(うわあ、なんて呪いパワーの強い小説だ)と思う。その繰り返しでした。
そして、面白い。笑ったし泣いたし感動もしました。あのライブを生で見てみたいとさえ思いました。すべての罵倒語、差別語、批判語の意味を破壊してくれる漫才! 素晴らしかったです。私はこの小説によって、私の純文学に対する偏見を破壊されました。純文学って、暗くてドロッとしていて、そういうのを書き抜くことで「これが人間の真実でござる」と格好をつけているものではなかったのです。面白いものだったのだなあ、と思いました。いや、それでもあの芥川賞作品は酷かった……と思うものはあるのですが、少なくともこれは違います。面白い。
神谷は生活・行動・思考のすべてを、お笑いの形で提示する人物です。非常識なことも平気でやらかす……というか、常識も非常識も、笑いのためのツールとして捉えてしまう人物です。非常にあやうい。いかにも破滅しそうに思えたのに、その私の破滅予想は、実に陳腐なものとして無意味化されてしまいました。おっぱいによって。偏見を壊されることは快感でした。あまりのことに怒りたおす主人公に共感しつつも、やっぱりそこには、微量の笑いと安堵が発生しました。
もう、笑いの道を選んだ彼らは、素直に絶望する権利すら放棄しているのかもしれません。だとすると凄いですね。本当に聖人というか、求道者です。
たいへん気に入ったので、繰り返し読むだろうな、と思います。
再販開始
「本日より本丸を独領とする」再販分の予約開始です。
今回は数に余裕が有るので、ご希望くださった方全員にお届けできる……はず……!
ついでに再販記念の作品を
※追記
webのぶんは完売、あとはK-BOOKSなんば壱番館の店頭に若干あるものと思われます。
ミツヨマラソン失敗記念
エロもたまには書かないと、書き方を忘れてしまうので。
演練のコメント欄でほかの審神者さんが、
「鍛刀で来なければ刀剣乱舞やめる」
と書いてあるのを見かけました。相当腹が立ったんでしょうねえ。気持ちは分かる。
でも、そんなときこそ二次創作をですね!
いやほんと、私もゲーム開始時以来の資源ゼロを体験して、それでも来なかったもんですから相当にイライラしました。
来ないと書けないし。書いたけど。内容酷いけど。
怒られないか心配だったんですが、喜んで頂いてるようで本当に良かった。
本丸独領
多くの方に読んで頂けて、幸せな小説でした。
キャラ数が多かったので、文字数もどんどん増えていってしまいました。量をこなすのはたしかに大変でした。が、思いついた話を文章に直すこと、そのものは楽でした。これはプロットもろくに書いてないのに不思議なことかもしれません。おそらく『報告書』という形式を最初に決めてしまったのが良かったんでしょう。
でも、こんなやり方に慣れてはいけないなあと思います。ちゃんと計画的に書こう。
一度だけスランプに陥って、筆がちっとも進まなくなりました。どうやって脱出したんだっけ? 忘れてしまいましたが。
あと一人称を何カ月も書き続けるのがいちばん辛かったかもしれません。とにかく三人称が書きたくて仕方が無かったです。あと女の子が書きたくて仕方が無かったです。ハンガリーさんは癒しだった。