『火花』又吉直樹・感想

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純文学には偏見が有ります。暗くてつまらないもの、という思い込みです。そして芥川賞作品には特に、この、暗くてつまらないものプラス、エロくて汚らしいもの、という、更にひどい偏見がセットになります。べつに思いたくて思っているわけではありませんが、思ってしまうものは仕方が有りません。あと、私はエロくて汚らしい作品が嫌いなわけではありません。むしろ大好きですが、純文学のかたちで突きつけられたいと思うほどの重要性を感じないだけです。

この状態で火花を読みました。

 
冒頭、主人公は天才的な先輩芸人・神谷に出合い、彼に惚れこんで弟子入りするわけです。この時点でストーリーが予測されました。「ああ、この神谷という男が破滅していき、最後は死ぬか、悲惨な状態で主人公と別れて、中途半端なかんじで終わる話だろうな」と。それならそれで、その残酷な破滅への道筋を、陰々滅滅と楽しませてくれたら満足かなあ、くらいの気持ちで読み進めました。
 
そして私の、しょーもない予測は裏切られるわけです。
 
何で得た知識かは忘れましたが、笑いという感情の基本は『あざ笑い』なのだそうです。動物の猿も笑いますが、それはやはり、あざ笑いになるのだそうです。たしかに、ハゲやチビやデブといった、お笑いの基本キャラクターを笑う行為は、あざ笑いですね。ではなぜ人間は、そういった差別的な感覚で快感を得られるのかというと、笑うことによって、自分の立ち位置の確認をおこない、自分を安心させることができるからです。自分はまだハゲてない、チビでもない、太ってもいないぞ、と。
 
しかしそれはいけないことですから、お笑い芸人というのは、ある意味、観客にとって、みずから生贄になりに来てくれる聖人みたいなものです。つまり、みずから笑われに来てくれる、みずから被差別的な立場に立ってくれる、みずからアホなことをしたり、馬鹿なことを言ってくれる。そして我々の負の感情を反転させ、安心させてくれて、日ごろの黒い怒りや、ひどい悩みや、不条理への苦しみを、気にしなくても良いどうでもいいものとして、無意味化させてくれるわけです。
 
ですからお笑いによって観客は幸せになれますが、芸人本人はどうなんでしょうね? 火花を読むと、彼らは自分自身の黒い怒りや、ひどい悩みや、不条理への苦しみを、素直に表現する権利を放棄した人々に見えてきます。もう、笑いが呪いです。笑いは観客を救うというのに、彼ら自身は笑うことによって救われません。自分が誰かを笑って救われる事よりも、自分が誰かに笑わされた理由を分析することを選ぶのです。そうして答えを求め、彼らは、人を笑わせること、つまり、自分が笑われること、自分をおかしな存在にすることによってしか、息ができない人々のようです。
 
そしてその、呪いのようなお笑いの構図の、究極の体現者として神谷があるわけです。小説内の、どんな悲しいシーンでも、どんな酷いシーンでも、神谷と徳永のかけあいを読むと、私はちょっと笑ってしまうのです。こう、「笑うところではないのに笑ってしまう私」を強烈に意識させられて、(うわあ、なんて呪いパワーの強い小説だ)と思う。その繰り返しでした。
 
そして、面白い。笑ったし泣いたし感動もしました。あのライブを生で見てみたいとさえ思いました。すべての罵倒語、差別語、批判語の意味を破壊してくれる漫才! 素晴らしかったです。私はこの小説によって、私の純文学に対する偏見を破壊されました。純文学って、暗くてドロッとしていて、そういうのを書き抜くことで「これが人間の真実でござる」と格好をつけているものではなかったのです。面白いものだったのだなあ、と思いました。いや、それでもあの芥川賞作品は酷かった……と思うものはあるのですが、少なくともこれは違います。面白い。
 
神谷は生活・行動・思考のすべてを、お笑いの形で提示する人物です。非常識なことも平気でやらかす……というか、常識も非常識も、笑いのためのツールとして捉えてしまう人物です。非常にあやうい。いかにも破滅しそうに思えたのに、その私の破滅予想は、実に陳腐なものとして無意味化されてしまいました。おっぱいによって。偏見を壊されることは快感でした。あまりのことに怒りたおす主人公に共感しつつも、やっぱりそこには、微量の笑いと安堵が発生しました。
 
もう、笑いの道を選んだ彼らは、素直に絶望する権利すら放棄しているのかもしれません。だとすると凄いですね。本当に聖人というか、求道者です。
 
たいへん気に入ったので、繰り返し読むだろうな、と思います。