同人誌『蛭子神の夢』第2版をCQ-WEBにて販売予定です。

 

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・大包三日です。
・大包平と三日月宗近が、山中サバイバルに追い込まれます。
・年齢制限はありませんが、きっちりとBLです。

webに公開済みの表題作に加え、書下ろし二本が含まれます

1、蛭子神の夢
2、三日月が語る『大包平の君物語』(書下ろし掌編)
3、山伏国広の山籠もり教室(書下ろし短編)

 

いや……1版は宣伝する暇もなかったのです。瞬殺につぐ瞬殺でして。

映画「BLAME!」感想

遠い昔、機械が暴走したそうです。
機械は建物を作り、また建物を作り、ひたすら建物を作り、とにかくどんどん建物をこしらえていき、建物は上に伸び下に伸び、横に広がり、地球を覆いつくし、宇宙を覆いつくし、太陽系を覆いつくし、もはや地表と呼ばれる場所がどこにあるのかさえわかりません。
建物を守る機械は、人間たちを、建物への違法居住者として殺すようになりました。
現在、人間という生き物は蟻くらいの扱いでしかなく、数も減りました。
果てしない建造物宇宙のどこかに、いろんな小集団があるだけです。

 

ある人間の村が、食糧危機に陥っていました。
子供たちは勝手に食糧採集に出かけましたが、敵ロボットに見つかってしまいます。
なんかめっちゃキモい大量のロボットが、わらわらと襲ってきます。とにかくキモい。
危機に陥った彼らですが、通りがかりの旅人に助けられます。

 

旅人は名を『キリイ』と名乗ります。
虚無的な雰囲気のイケメンで、めちゃくちゃすごい銃を持っています。
彼は『ネット端末遺伝子』なるものを探しているそうです。
子供たちはそれを持っていませんでしたが、村の大人がなにか知ってるかもしれない。
子供たちはキリイを村に連れ帰ります。
そして老人の説明を受けます。それによると。

 

ネット端末遺伝子は、大昔の人間が持っていたもの。
それがあると、人間は機械の暴走を止められる!
まあ夢のような話なわけです。
それを語った老人は、どこでそんな話を聞いたのかというと、村の下のスペースだそう。
キリイはそこに向かいます。そして……。

 

ってなわけで、BLAME!の世界に、シンプルなストーリーをくっつけて、わかりやすくしてあります。
そもそもBLAME!のストーリーって、

 

「霧亥がネット端末遺伝子を探す」

 

だけですもの。
巨大構造物が主役で、霧亥はそれの案内人みたいなかんじでした。
だからあの、とにかく無限に広がる構造物の世界を見られればいいなあ、と思いつつ、映画館に出かけました。
結果、おもわぬ副産物というか。
霧亥が異様に格好良かったり、重力子放射線射出装置の爽快感が異様にすごかったり、シボの安心感が異様だったり。
そういう、映画化されて良かった点がいっぱいありました。
あと、霧亥を踏むサナカンに萌えました。

 

逆に不満な部分も有ります。
世界があんまり絶望的じゃない。明るくて、移動距離が短くて、空が近くにあるような印象を受けました。
サナカンが可愛くていやでした。人が好意を持つことを一切ゆるさないような、厳しい雰囲気がありませんでした。

 

とはいえ、やはり、完璧ではないにしろ、あの世界っぽいものを見せてもらえたのは嬉しいです。完全でなくとも近いモンはあった! だいぶ近かった!
嬉しかったです。

 

映画「美女と野獣」感想

昔、イケメンの王子が、調子こいて税金上げて、パーティー開いてブイブイ言わせてました。王子のゴーマンっぷりはひどくて、雨宿りにきた哀れな老婆をあざ笑い、追い返すほどの勢いです。
ですがその老婆というのは、様子見に来た魔女だったわけです。当然、魔女はめちゃくちゃ怒り、ゴーマン王子に呪いをかけます

 

1、王子はイケメンじゃなくて、悪魔じみたルックスのビーストになるよ
2、使用人たちは日用品になるよ
3、城とその周囲は冬になるよ
4、領民から王子の記憶は失われるよ
5、一本の薔薇が枯れたら、おまえらの呪いは永遠に解けないよ
6、以上は王子が誰かから愛されたらキャンセルされるよ。これ男女の愛な!

 

と、なかなかにキツい呪いですが、理にかなっているのです。

 

1について。王子は顔はイケメンだけど、オトンが厳しかったせいで性格がコミュ障です。ルックスの美が失われると非常に不利です。地位とか財産とかはありますが、領民がいない今は使いどころが有りません。強いて言うなら、オカンゆずりの身内びいきな親切さはあるようです。そこを見出し、育てなおしてくれる女の子が必要なのです。

 

2について。使用人たちは、王子に忠実な働き者だったのですが、忠実ゆえに彼を放置して甘やかし、耳に痛い進言をいっさいしてきませんでした。それゆえに日用品にされたのです。必要なのは、王子の意思を無視してでも彼のためにふるまうこと。彼らは反省してますが、でも、肝心の女の子が来なきゃ挽回のチャンスもありません。最初から、女の子いらっしゃい! 女の子ウェルカム大歓迎の状態です。

 

3について。美しい城は冬に閉ざされ、周辺に狼が出没する危険地帯です。薔薇の花びらが落ちるたびに、城のどこかが崩落していきます。こんな城に意味があるのかっつー話です。暗いところに閉じこもった状況を打破せねばならんのは、心も城も同じだってことです。

 

4について。領民は支配者を失ったせいか、同じルーチンを繰り返す愚民と化しています。変化を求めず、女に学問は不要と考え、安易な扇動にすぐに騙されます。ガストンとかいう中味カラッポのイケメンが居るのですが、この悪役の語る陳腐な英雄譚に振り回されています。つまり、アホはアホに騙されるのです。彼らはカシコを馬鹿にした報いとして、王やヒロインといったカシコをみずから失い、永遠の愚民と化す瀬戸際です。

 

5について。美の象徴から、一枚一枚、そのかけらが剥がれ落ちていくわけです。いったい薔薇を生かすってのはどういうことなんでしょうな? 薔薇を大切にするってことは、単に薔薇を所有して、保持すればいいってことなんでしょうかな? と、暗喩的です。

 

6について。愛にもいろいろ有りますが、恋愛を持ってきたところがミソですね。他人と他人が、つまり違うものと違うものが、互いの中に美点を認め合わなければ、恋愛は成立しません。ルックスや財力も、美点のひとつではあるのだけど、そればかりに頼って振り回せば、ただの迷惑な欠点と化します。かつての王子や、現在のガストンがやらかしてることです。

 

と、この前提条件で物語はスタートを切ります。
あとはレースを見るような感覚ですな。いかにして城は女の子をゲットし、いかにして使用人は女の子を推し、いかにして王子は女の子の歓心を得るか。障害としてガストンがあらわれ、愚民があらわれるけど、それをどうやってかわすか。
よしバトンがつながった! よし条件クリア! と、ピタゴラスイッチを見るような面白さでした。あらかじめ明らかになっている関門とゴールを、どんどんと走り抜けてくれる展開です。
 
で、これは視点を俯瞰に持ってきた感想です。
ヒロインに寄りますと、これは女の子の成功譚となります。退屈な日常から脱出したい女の子がいる。まわりは本も読めないバカばかり。だけど彼女は日常と戦い、鬱陶しい悪役をかわし、父を助け、ついに野獣という、文学論をまともに語り合える友を得るのです。悪役の悪意が野獣に向けられると、またそれを止めるべく駆け付ける。最終的には、「必殺技:敬意を愛にパワーアップさせる波」で彼を救う。つまりヒロインが得るのは恋人というよりも、永遠の相棒、パートナーなわけです。
野獣に寄りますと、実はシンデレラストーリーになる。不幸な子が居た。その子には、醜くなるという試練が与えられた。野獣を救うのは王子様ならぬヒロイン様の愛だけ。野獣は耐え続け、待ち続け、ついにヒロイン王子を得る。美しい彼女の愛で彼は救われ、結婚して王になる。
 
たぶん中心となるのは、野獣のシンデレラストーリーという王道プロットで、王道でありながら逆転している。でも王道だから安定感がすごい。そこにキャラを足すたびに、整合性をきっちりと取っていったんだろうな、という気がします。
これ一人じゃ作れないカタチだよなあと。脚本の時点で、何人の視点が入ってるんだろう。
 
あえて深読みしてみましたが、素直に歌と踊りと美術の美しさに酔うのが良いと思います。面白かったです。
 

映画「ゴースト・イン・ザ・シェル」感想

人間の脳みそを機械の体にぶっこんだ女性が主人公です。その体は美人な白人女性で、めちゃくちゃ強いのです。生ける兵器と化した彼女は、しかしアイデンティティに悩みを抱えています。自分は人間なのか、機械なのか、自分はいったい何者なのか。

彼女はアメリカンな日本において、公安9課という、武闘派スパイ組織みたいなもんに所属しています。そこでとあるテロリストを追っているのですが、そのテロリストってのが、主人公の体を作った会社に恨みを持っているらしく。そんなやつなのに、なぜか記憶がうずいて親しみを覚えてしまう。

調べれば調べるほど、テロリストに近づけば近づくほど、会社への不信感はつのるし、テロリストには惹かれてゆく。ていうか真相がわかってみると、会社はとんでもない犯罪をおかしてました。主人公は許せんものを感じます。彼女は色々調べて、同時に自分自身を取り戻すのです。

で、ここまで書いたら、なんで不評なのかも分かるかとw ベクトルが逆です。攻殻ってのは最終的に、主人公が人間であることを捨ててしまう話です。「私は何?」という問いに対して、「おまえは世界だ」という問いを返す。それを言葉だけでなく、具体的に実践してしまう。

アニメ映画版をネタバレしますと、敵の正体はネットに自然発生した意識体で、主人公はそれと結合(結婚)して肉体を捨て、ネットの神のようなものになります。自己の意識が果てしなく拡散されて、無限に広がるようなオチの爽快感が気持ちよく、だから私は好きでした。

ですがこちらの映画はけっきょく、人間が人間のままであることを大肯定してしまう結論です。主人公のアイデンティティは、一人のとある具体的な人間の人格として落ち着きます。そりゃ別の話です。ヒューマニズム的には良いオチなんでしょうが、SFとしては失敗です。

決定的に「この映画わかってない!」と思ったのは、エンディングに「謡」を流しよったときです。結婚できなかった映画に結婚の歌を流してどうする! 嫌味か! そんな、クリスマスの喪男マライア・キャリーを聞かせるような真似をするんじゃない! と思いました。

SFってのはやっぱり、構築された理屈の美しさで魅せてくれるのが良いと思います。ヒューマニズムでは駄目です。見て、「な、なんて圧倒的な美しい理屈なんだ! 不謹慎なのに洗脳された!」と思わせて欲しいのです。それが有りませんでした。圧倒されませんでした。

そういう意味ではかつて見たマトリックスのほうが攻殻っぽかったなあと思います。あの映画を見たときは、私はマトリックスに行きたくなったし、なんか頑張ったら壁を登れそうな気がしたし、ブリッジしたら銃弾を避けられそうな気分になったものですが。

じゃあつまらない映画だったのか? といえば、そんなことはない。近未来サスペンス・アクションとしては良い出来なんですよ。かつてのティラノサウルスゴジラみらいなもんですな。そういうノリでやるのなら、日本の原作なんて使わない方がいいぞ、と思いました。

映画「モアナと伝説の海」感想

 ストーリーは王道です。
 昔ヒーローがいらんことをしたらしいのです。
 緑の島の女神から、心をあらわす石を盗み出しました。
 おかげで世界には闇が発生し、このままだと少しづつ絶滅していきます。
 しかし1000年後、モアナという8歳の少女が、女ヒーローとして選ばれます
 モアナの仕事は、旧ヒーローを連れて、女神に詫びを入れに行くことです。
 
 ストーリーラインは、ロードオブザリングに似てますね。目的は悪を倒すことではない。特殊な場所に行き、宝を手放して、世界の調和を取り戻すことです。単純な勧善懲悪ではない。だからこそ、主人公が少女であることが生きる。
 彼女は戦い方は、倒すのではなく、切り抜けるやり方です。すばしっこい体と、目的を見失わない情熱と、怖い道を突き進む勇気と、弱いものへの優しさで戦います。バトル系ヒロインではあるものの、グーパンチとかは使わないので、とても純粋で可愛らしい。

 また、駄目なヒーローのマウイも良いと思います。お相撲さんのようなムチムチとした体や、しわの寄ったゴリ系の顔も、なんとなく、太平洋の南側にはこういう男性が居そうだ! と思わさせられます。神に近い能力を持っているのに、とても強いのに、非常に人間的です。
 キャラとして立っているのはこの二人だけですので、あとはただひたすら、こいつらに感情移入しつつ、海を渡っていけば良いかんじでした。

 

 歴史かなんかの授業で習ったのは、人類ってのは、アフリカで生まれて、そこから大陸を歩いたり、島々を船で渡ったりして、世界中に散っていったらしいですね。
 知識としてはそんなもんです。面白くもなんともない。テストにも、試験にも出ない情報には、なんの価値も感じず、また魅力も無いものだと思います。


 しかしモアナを見ると、情報が命を持ちます。
 彼らの祖先は、丸太をヤシ紐でくくった船をつくり、そこに家族を乗せて、海に乗り出したに違いないのです。空と海のあわさる彼方の地平線に目を据え、太陽の日差しを半裸の体で受け止めて、強い潮風に髪と衣服をなぶらせながら、どんどんと進んでいったに違いないのです。未知への恐怖は、勇気と、まだ見ぬ地へとたどり着く希望への、わくわくとした気持ちで乗り越えたに違いないのです。
 そういう祖先を持つ彼らを格好いいと思い、また現在のハワイ人や、ニュージーランド人は、彼らの子孫に違いないと思い、超うらやましいと思う。描写が正確かどうかは知りません。本当の事かどうかも分かりません。しかし映画というものは、正確かどうかよりも、正確だと思い込まさせられるかどうかが大切だと思います。それが映画のリアリティです。これが本当の出来事だと、洗脳してもらえるのです。多大な快感とともに。


 というわけで、モアナはたしかに、美しい海の描写がたくさん出て来ます。でもそれは、海の中の美しさではありません。海の上の美しさです。そこを進んでいく人間の美しさを唄っています。
 
 いや日本でも、沖縄人や九州人は、彼らのように海を渡ったのかもしれませんね。いいなあ。ちょっとくらい私にもその血が流れてないかなあ。
 
 

映画「沈黙 サイレンス」感想

宗教的なことというのは、たとえ映画の感想であっても、書くのを躊躇する気持ちがあります。うっかり失礼なことを言いそうだからです。宗教に対する面倒くさいイメージも有ります。そしてこういう、「無言を強いる何か」に対しての対抗手段が描かれた話なのかなあ、と思いました。

 

あらすじです。
ロドリコ神父とガルベ神父、この二人が、江戸時代の長崎に行きます。
師匠の宣教師が、日本で棄教したとの噂を聞いたからです。
案内役として、うさんくさいキチジローをマカオで拾います。
キチジローはクリスチャンらしいのですが、なんかイラッとするような雰囲気に満ちてます。
で、長崎についてみると、もう地元の貧乏な村人は、涙ながらに歓迎してくれるのです。
話してみると、村人たちのキリスト教感覚は、微妙に歪んでます。
迫害の中、教え手もいないままに手探りで信仰を続けていたせいです。けなげです。
しかし弾圧者、イノウエさまの追及は苛烈です。
信者たちは捕らわれ、ロドリコの目の前で、次々と残酷な目にあっていきます。
そしてついに、ロドリコ神父も危機に陥ります。

 

小学生のころ、歴史の授業で、島原の乱について習ったときに思ったのは、
「踏みたくもない絵を踏まされたくらいで、怒る神様なんていやだな。優しくないなあ」
でした。あと当時の私は、家でよく寝転んでテレビを見ていて、通りがかりの親に踏まれてました。
でも、もちろんそんな問題ではない。

 

これはイノウエさまがこしらえたシステムなわけです。踏み絵は、信者の心を折るためのシステムのひとつとして入り口に設置されており、そこからキリスト教を壊すための多様な手段が加えられるわけです。
その合理性と的確さ、残酷さと確実性はもう、凄すぎて、ある種の美しささえある。映画でも言ってましたが、悪いものってのは一種の美しさを持っています。イノウエさまは「キリストを否定したら心の平安が訪れる教」の教祖と言ってもいい。

 

本当は、イエスという人は、鞭で打たれるわ釘を刺されるわ、磔にされて見世物にされて、ものすごい侮辱を受けた人なのに、それでも人間を許してくださったという凄い人らしいのです。そんな人が、自分の絵を踏まれたくらいで怒るわけない。つまり問題は、信者がイノウエシステムを受け入れるか否か、キリスト教への否定行為を肯定するか否かなわけです。

 

優しいロドリコは、小学生時代の私と同じく、踏み絵くらいで神が信者を否定するとは思っていません。村人に対して、絵を踏め! 生きろ! と必死に叫ぶわけですが、これもやはり、そんな問題ではなかったわけです。イノウエシステムの目的は、信者たちが心に持つキリスト教の感覚を破壊することですので、踏み絵によってそれが成されなかった場合は、次の手段を用います。拷問され、見せしめにされ、殺されていく村人たちを見て、ロドリコは懊悩し、泣き、苦しみます。

 

映画の冒頭では、なんだかパッとしない雰囲気だったロドリコが、この苦痛に満ちた中盤の段階になると、強い美しさを持つようになってます。妙な表現ですが、女性的な、エロティックな雰囲気を感じました。最初は、私の頭が腐ってるせいでそう見えるのかと思いましたが、やはり監督の狙いであるような気もします。


村人たちはイエスの姿を、絵姿でさえうかつに見られないわけですが、あのロドリコの放つ、美というか魅力というかには、説得力があっただろうと思います。ロドリコに神を見て、この人の導きで死ぬんだ、と思ったことでしょう。そしてそれは歪んだ信仰感覚なわけですが。
キチジローも。こいつはどうしようもないやつで、決死の行動を取る村人の横で、絵は踏むわ、すぐに裏切るわ、なのにあっさりと反省して、泣きながらロドリコに甘えて来よるのです。まるでオカンがどこまで自分を許してくれるか試している幼児のようです。


つまりロドリコは、イノウエシステムに取り込まれて、心の中のイエスを破壊されていきながら、ある種、マリア的なものを獲得していったのかな、と思います。そういう描写だったのかなと。神様を産んだ女性のように、日本で何かを産んだってことかな、と。

 

で、終盤。いよいよロドリコに棄教のトドメが刺されるわけですが。
ここで、「日本におけるキリスト教」の矛盾が前面に押し出されるわけですね。
いろいろ考えさせられる面白いオチなので省きます。

 

私はこの映画を、映画館で一人で見たんですが、隣りの席に座った客がちょっと変な人で、ずーっとバリバリと紙袋を鳴らしつつ、クチャクチャと音をたてながらものを食ってました。最初は苛々しましたが、映画が終わるころにはもう、「クチャ音くらいで死ぬわけでも無し。こういう人がいてもいいじゃないか」という、天使のように寛容な気分になってました。映画の影響ですな。つまり、面白かったってことです。
隣りのクチャラーさんは、エンディングを見ながら、「……これ、すごいな。これ、すごいな」とずっとブツブツ言ってました。ちょっと変な人だけに嘘は無いでしょう。心の中で強く思ったことが、口からあふれ出ちゃったんでしょう。
うん、私もそう思いました。すごかったです。

 

 

映画「この世界の片隅に」感想

広島のとある田舎に生まれた少女が、呉に嫁ぎ、そこで生きていく話です。
たったそれだけの話でした。
戦前・戦中生活マメ知識、みたいなものがたくさん出て来て楽しいです。
で、そこに油断していると、やられますw

 

人類の世界において、偉人でも英雄でも何でもない私は、歴史に足跡を残すわけでも無く、誰にもなんの影響を与えることも無く、ただただ生まれて死んでいくだけの人生なわけです。というか、世の中はそういう人のほうが圧倒的に多いのです。良い悪いの話ではなく、単にそういうものだってことですね。

 

それならそれで淡々と日々が続けば良いのですが、歴史はときどき、人の世界の隅から隅までをガッサーとえぐり取るような出来事を発生させる。昭和初期を生きた人は、まさにそういう時代を生きた人なんだと思います。

 

でも、世界における個々の人間なんて、人体に例えれば細胞の一個にすぎません。えぐられた傷は埋めるしかない。淡々と埋めていくだけなんです。失われた細胞は痛いし、苦しいし、涙も出るけど、どれだけ嘆いたって日々は続くし自分は生きている。だから違う細胞とくっついて、生きて、埋めて、回復していくだけです。

 

「ケガをしたら、治るまで待つだけ。治ったらまた歩くだけ」という、多数の人間に共通した人生の歩みを、すずさんという一人の女性が代表して語ってくれていた映画でした。その説得力の強さには、共感の涙を流すしかなかったです。

 

物語において、人を泣かせる簡単な方法は、愛する人を死なせることですな。恋人や配偶者、子供やペットを死なせるのが簡単です。しかしこの映画の凄いところは、そんなことでさえも、人生の風景の一片にすぎないというところです。だから泣くところではない。私が泣かされたのは、むしろその次の段階でした。

 

目の前で命を奪われ、体に傷病を負い、同時に、のんびり屋にとってはとても大切だった、表現スキルまで奪われてしまったすずさん。さすがに病みかけたけど、それでも生きて回復していく。穴を埋めるように、旦那の世話をして、近所のおばちゃんと言葉をかわし、そして孤児を得る。

 

どれだけ深い傷であっても、人はそれをコツコツと埋めて、古い細胞を、痛みとともに非常にゆっくりと消しながら、おずおずと、そろそろと歩いていく……的な姿の、いじらしさ、けなげさ、そして強さに泣けました。人間はみな、いじらしいものだ、と思いました。

 

いや……、これが他の映画だったら、旦那は死んでる気がします。主人公の女性の不幸さ、悲惨さは強調されているでしょう。「どんな目にあったって、私は生きるんだから!」的なセリフをモロに怒鳴っているでしょう。BGMババーン。いやすぎる。

 

「こんな『この世界の片隅に』はいやだ」がアッサリと想像できてしまうくらいに、最近の邦画ってのはこういう、普遍的で当たり前な光景を描こうという感覚が欠落していた気がします。だから、この映画のヒットってのは、従来の映画技法への反発って側面もあると思いますよ。